6/30/2007

川平湾でカヤッキング

子供たちの次のアクティビティはカヤッキングです。

こちらも海講座さんに用意してあるカヤックを使って
1時間ほどの川平湾内ツアー出ました。

本来なら二人で力を合わせて。。。というところですが
結構ハードなのでショウタはサボってばっかり!

おまけに、ここでも大物振りを発揮して
船の上で仰向けになって寝始める始末。。。
スタッフに「ちゃんと働け~」って言われてました。

カヤックツアーへGO!

ちょっと怪しげな井出達ですが
船の上で日焼けをしないための対策です。

カヤックチーム記念撮影

普通の観光船やダイビングボートで入れない
川平湾内の中島の裏側に入ったり
ちょっとした探検気分で楽しいアクティビティでした。

楽しかった旅もあっと言う間に終わり石垣島を後にしました。

石垣空港から出発

6/29/2007

ボートダイブ&シュノーケリング

海講座さんには事前に子供連れでお邪魔するとお伝えしてあり
快く受け入れしてくれるとのことでしたので
アクティビティも今回はいろいろ考えました。

海講座での子供たち

小さい子供たちは川平のベビーシッターさんにお願いして
小学生チームはパパママと一緒にボートシュノーケリングへ

保育園の年中さんの女の子たちは翌日小学生チームと
一緒にカヤックツアーに行くことにしました。

いつもきれいな川平湾から出発!

ボーイズは2人ともボートシュノーケリングは初めてで
海の上でも大丈夫かな?と思ってましたが

海講座のスタッフがきちんとアテンドしてくれたおかげで
子供たちも大満足のシュノーケリングを楽しんだようです。

ボートシュノーケリングに出発!

ショウタはパパがエントリとエキジットのときに
送り迎えをしてくれてレギュレータを加えさせて
将来にむけて練習もしちゃいました。

ところが、肝心のマンタウオッチングツアーでは
けっこう揺れる船の上で大いびき!!
ガーガー寝てました!!将来大物??

マコトくんは、パパとママと3人一緒に
シュノーケリングでマンタウオッチングに成功!
船に上がったときは興奮気味でした!

子供たちはパパとママが潜っている間も
川平の裏手にある底地(すくじ)ビーチで遊んでいました。
こちらもとてもきれいな場所です。

底地(すくじ)ビーチ

日本の最西端にある「石垣市」は
邪魔するものがないので夕日がとてもきれいでした。
海の向こうは中国です。
もちろん海は東シナ海ですよね。

川平石崎の夕焼け

川平石崎の夕日

6/28/2007

石垣島へ団体旅行!

毎年7月の第1土曜日曜。。。といえば
ここ何年も続いている沖縄旅行の季節!

沖縄地方が梅雨明けがだいたい6月20日ころで
そこに魚たちやサンゴの産卵期なども重なって
海の中は大賑わいの季節になります。
そんな意味でもベストシーズンと言えるでしょう!

今年は、最近私めがごひいきにしている
石垣島・川平のダイビングショップ「海講座」さんをベースに
4家族+独身女性2名の16名で出かけることにしました。

宿泊は川平にあるペンション「海の家族」さん。
アットホームなペンションです。

ペンション海の家族 入口

海の家族 コテージ

宿泊料金はだいたい1人1泊2食1万円ですが
近海で取れる魚介類を中心として
とてもおいしい沖縄ローカルの料理を食べさせてくれます。

今回最初の目玉は釣り上げたばかりカジキマグロで
お刺身やステーキがとってもおいしかった。

次はこちらの名物バーベキューで
本来なら1枚8000円もする石垣牛のほかに
伊勢えび、車えびそれにヤシガニまで出してくれました。

こちらのBBQはすこし奮発して、1人10000円!
でも内容充実でとても満足です。

海の家族 バーベキューコーナー

ゴージャスなバーベキュー

ヤシガニ

もちろん、旅の目的はダイビングです。
ダイビングの写真はこちらへ。。どうぞ!

6/22/2007

1年ぶり。。。の日本

6月下旬。。。1年ぶりに家族が帰国しました。

成田到着するなり暑い暑い!の連発!
時差ぼけもあるので、日本の最初の1泊は
舞浜の Sheraton Grande Tokyo Bay Hotel に1泊しました。

Disney Sea のレストラン オチェアーノ でディナーを取ったり
Sheraton の中にある日本式大浴場に入ったり。。。と
到着後の久しぶりの日本を楽しんでいました。

ディズニーリゾートライン

すぐに、現在の我が家の越後湯沢に新幹線で移動!
カナダでは鉄道はあまり乗ることのなくなったため
気に入ったようです。

越後湯沢に帰省中

越後湯沢では谷川岳の天然水で楽しめる
「貝掛そうめん流し」を楽しみました。
ここでは炭焼きの「岩魚」や採ったばかりの
山菜てんぷらを楽しむことができます。

貝掛そうめん流し

もちろんマンションにある温泉大浴場で
久しぶりの温泉を楽しんでいました。

6/09/2007

稚内で観光バスに乗車

稚内に来たからには最北端の「宗谷岬」に行きたいと思ったのですが、バスの本数も限られてるし、レンタカーを借りるほどでも なくいろいろ調べたらどうやら定期観光バスで行くのが最良の方法とのこと。

おまけに、観光後稚内空港まで送ってくれるということなので、朝8時半出発「宗谷バス」が運行している「稚内Aコース 日本最北端と北海道遺産めぐり」に乗車することにしました。もちろん観光ガイド付きで、何箇所もまわってくれて3300円です。稚内市内からはどのみち空港まではバスに乗るお金も必要になるので、コストパフォーマンスは高いです。

バスに乗ると最初に訪れたのは、市街地のすぐ上にある「稚内公園」です。ここには樺太で亡くなった方々を供養する塔が立っていました。もちろんここに来るまではこの供養搭のことは知らなかったので少しナーバスになりました。

稚内公園

ソ連軍が太平洋戦争末期に突然侵攻してきた時
最後の伝令役になったという
大泊の電報交換の女性たちを祈念するモニュメントがありました。

樺太の人々に追悼

残念ながらこの日は雲が低く、樺太は見えませんでしたが供養と共に手を合わせてきました。。。

実際、祖父徳次郎には兄弟というのがいて、徳太郎、徳三郎、妹2人の5人兄弟だったようですが
徳次郎ジジはさっさと東京へ出てきたので関係なかったのですが徳太郎、徳三郎、妹2人は最後まで大泊に終戦まで住んでいたのでいわゆる引き上げの混乱を体験したそうです。

徳太郎大叔父はその後北海道のどこかに住んだようですが、その後の消息は不明、徳三郎大叔父は樺太で若い頃にスキーのジャンプの名選手だったと聞いてますがその時のケガが元で若くして亡くなったと聞いてますので樺太の地で永眠したのかもしれません。

他の大叔母たちは、さすがに頑強な明治女で私も良く知るおばあさんで結構最近まで生きていたと思います。

以前、亡くなった父親が若い頃、祖父の親戚を頼って北海道一周旅行をしたことがあると言っていましたのでたぶん父親もこの地を訪れているはずです。

そんな意味でも感傷的になりました。

悲しき過去。。。

観光バスは「ノシャップ岬」という場所に停車し
北海道1高い灯台とノシャップ岬を見学しました。

ノシャップ灯台

最初「納沙布岬」かと思いましたがこちらは根室の東端の方で
稚内は「ノシャップ」。。
どうやら同じアイヌの語源からきた言葉のようです。 

ノシャップ岬

次にバスは東に約30kmほど移動し
日本一の広さを誇る肉牛の放牧場がある
日本最北端の丘陵「宗谷丘陵」を経由して
「宗谷公園」という場所に停車しました。

宗谷丘陵

宗谷公園

こちらは宗谷岬の灯台があるくらいですが
サハリンまで約40kmとの場所で本来なら
サハリンの島影が見えるようです。
やはり、雲が低くて残念ながら見れませんでした。

樺太が見えない。。。

ここには、1983年ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行き大韓航空旅客機がソ連戦闘機に撃墜されるという悲しい出来事「大韓航空撃墜事件」の事件現場に一番近い陸地とのことで慰霊塔もありました。日本人も28人が犠牲になったそうです。この話は頻繁に飛行機に乗って国内や海外を移動している当方にとって胸が痛くなるようなストーリーです。。。

そして、驚いたことに日本最南端、最西端の「市」である石垣市とは姉妹都市ということも初めて知りました。先々週行ったばっかりだ!ということは。。。残されたのは東端の「市」である「根室市」ということになります。これは、いずれチャレンジしないと。。。

石垣市と姉妹都市?

バスは宗谷公園から海岸沿いに下り
最北端のモニュメントの場所に移動しました。

日本最北端

観光バスもたくさん来て写真を撮る所です。
しかし、みなさんここで満足しているようですが
実の最北端がこのモニュメントの裏側にあるのを見逃しませんでした。
もちろんちゃんと踏みしめてきました。  

本当の日本最北端

ここら一帯は、すべてが最北端になりますので
最北端のバス停、最北端の売店、最北端の食堂、
最北端のトイレ、最北端の民宿。。。などなど。。

日本最北端の売店

日本最北端のトイレと定期観光バス

もちろん、ここでの名産品「水ダコ」を串焼きにしたものと
生ビールを食べたのは言うまでもありません。

もちろん最北端のトイレにも行きました。

ただ、本当の最北端となると宗谷岬の沖合いにある
岩礁「弁天島」が正式な最北端だそうですが、ただの岩なのでした。

本当の最北端

最後に江戸時代に「間宮海峡」を発見して樺太が島であることを発見した間宮林蔵が樺太に渡った地点の記念碑を見て、稚内観光の最後となりました。

荒れる北の海を、先日(2007年6月)青森県深浦で発見された北朝鮮からタコ船で脱北してきた漁師の家族のような木っ端のような船で樺太へ渡ったそうです。その頃はこの北海道へ渡るだけでも大変なのにこの最北端の地からさらに北へ向かったという事実は驚愕に値するものです。

間宮林蔵さんは偉大なのである

さてさて、最後に。。。。若干19歳で東京に出た祖父ですが、その後の羽振りの良さや戦後に五反田でけっこう大きな土地を保有していたなどなど、実はそこそこの金を持っていたように推測されます。

東京に上京したあと、上野精養軒でシェフまでなって、その後五反田の繁華街にレストランを開店して独立した。。。という割には、上京してから成功するまでの時間が短いのです。。。

実際、樺太に渡ったとはいえ食べるにも困るような「極貧」であったという話は聞いたこともないし、樺太の鉄道省勤務くらいではさほど上京資金なども稼げなかっただろうから、借金の保障人になって土地などは取られたかもしれないが、青森県弘前から樺太へ移転した際にはそこそこの金を持って行ったようです。いわゆる「開拓民」であったという話もないのでたぶんそうでしょう。。。

当方も札幌で仕事をしていたころ聞いた話では、いわゆる明治初期の開拓民やずっと地中にいた炭鉱労働者でない限りは、実は北海道や樺太に住んでいた人々というのは、かなり裕福であった
という話を聞いたことがあります。

炭鉱労働者も危険手当があったせいで、とても高賃金だったと聞いているしいわゆる内地の女工さんのレベルとはどうやら違うようです。もちろん自然環境はとても厳しいのですが、稚内は沿岸部にあって対馬暖流の影響で以外にも温暖ということなので、そういう意味では海の影響をもろに受けて樺太と同じくらい高緯度にあるのに温暖なバンクーバーとある意味似ているのでした。

ただ、ここの違いは強烈な北風で風力発電ができるほどで、そういう意味では自然環境は確かに厳しいです。。。。でも、昔の日本人のバイタリティーというのを改めて感心させられる旅でした。

6/08/2007

稚内市内をぶらり旅

宿泊した稚内全日空ホテルは

利尻島、礼文島行きやサハリン行き
フェリー乗り場のまん前に位置し

私の部屋も宗谷岬やぼんやりと樺太(サハリン)を望めました。
正面に見えるのが離島行き、右手がサハリン行きの
フェリー乗り場、遠くに見えるのが宗谷岬です。

フェリーターミナル

サハリン(樺太)にも行かれます

ホテルの部屋から有名なモニュメントの
「北防波堤ドーム」が見えましたので外に出てみました。

建造物があまりに綺麗なので
例によって税金の無駄遣いの最近の建築物かと思ったら
昭和11年に建造したものだと聞いて驚きました。

北防波堤ドーム

やはり旅の情報というのは、現地に来て歩き回ってみないと
真意がなかなかわからないもので。。。

祖父が出発したという「稚内駅」は現在の南稚内駅
私が降りた現在の終着駅の稚内駅は「稚内港駅」

そこから樺太行きの乗客のために
この北防波堤ドーム沿いに線路が通り
もう少し先に連絡線乗り換え用の
「稚内桟橋駅」があったそうです。

写真はネットで偶然見つけた1990年頃の写真で
まだ蒸気機関車がモニュメントとして残っていたようですが
やはり強烈な潮風により腐食して
現在は車輪のみが残っていました。

稚内桟橋駅跡(1990年頃の写真) 

今年4月にオープンしたばかりの観光施設
稚内副港市場」に当時の再現やパネル写真などで展示してあり
ある意味ラッキーでした。

こちらには当時の様子がかなり詳しく写真入りで展示してあり
祖父が勤務していた鉄道の様子や、ここに来てわかった
稚泊連絡船という名称なども知ることもできました。

豊原中学校の再現

旧稚内港駅(現稚内駅)の再現

樺太の鉄道

稚泊連絡航路

こちらの写真もネットで見つけたものですが

祖父が少年期過ごした大泊市街と
たぶん通っていたと思われる大泊中学校の写真です。

大泊市は終戦当時35,000人、樺太全体では
約400,000人もの人が住んでいたそうです。
北海道庁ならぬ樺太庁というのは
ある意味大きな県庁だったわけですね。

大泊市街

大泊中学校

これらの北防波堤や稚内港駅、稚内桟橋駅も
大正3年に「王子製紙」が樺太に工場を作ったあとに
大量に人が流入しはじめたあとの昭和11年以降の話で

祖父はもうその頃には東京にいたはずなので
これらの施設は知らなかった。。ということになります。

さて、この稚内副港市場はいわゆる観光市場と食堂や売店
それに温泉施設まであってとても快適な場所でした。

市場と言えばもちろん、ウニをめざとく見つけ
本日の夕食はここで買ったウニとボタンエビとお弁当
それにワインをホテルの部屋に持ち込んで
結構ゴージャスな夕食となりました。

写真のバフンウニは3箱で2000円!!
スプーンでアイスクリームのように食べました。
あまりにも大量に食べたので
翌日少しお腹の調子が悪くなりました。。。

バフンウニ3つで2000円!!

稚内に到着

もともと津軽藩で百姓兼武士だったと思われる当家が
なぜ樺太出身なのか正確な理由は定かではないのですが。。。

祖父が生きているときの話では。。。
昔は羽振りがよかったのだが、借金の保証人になって
総財産奪われた。。。のような話だったらしく

「借金の保証人には絶対になるな!」と
子供の頃から言われていたのを記憶しています。

実際、祖父が弘前生まれなのか樺太の生まれなのか
今となっては知る由もありませんが
樺太の鉄道省(旧国鉄、現JR)の鉄道技師だった。。
いう話は、聞いたことがあります。

まあ、そんな意味で。。。
稚内は当家のルーツとしては
現存する日本の領土で最も近い場所になるのと
祖父の鉄道の旅の始発点になったはずなので
とりあえず来てみました。

稚内駅の風景 

もっとも。。。その背景には。。。。
利尻のコンブをたっぷり食べている「バフンウニ」が旬を迎え
わずか1ケ月ほどのちょうどいい時期
というのがもちろんあったのですが。。。

まず、先日日本中のホテルをインターコンチネンタルグループに
売り払ってしまったANAさんの系列
「稚内全日空ホテル」にチェックイン

稚内全日空ホテル

すぐそばにあった海産物の直売店で妹あてに
「アブラガニ(タラバの一種)」を送ったあと
そこの2Fで待望の「バフンウニのウニ丼」をいただきました。
値段はちょっと高めで3500円。。。でも。。。
けっこうたくさんウニがのっかっていたので、まあ満足しました。

まずはウニ丼

札幌から稚内へ

先週の続きを行うため、金曜日仕事が終わったあと
飛行機で札幌入りし、「シェラトン札幌ホテル」に1泊

札幌からは「特急スーパー宗谷」で一路稚内へ向かいます。

左が「特急スーパー宗谷」、右が「旭山動物園号」です。
JR北海道が動物園人気にあやかって走らせています。
名物のシロクマをデザインにあしらった電車で
子供たちにも人気があるようです。

スーパー宗谷と旭山動物園号

「特急スーパー宗谷」のグリーン車は革張りで落ちついたデザインです

グリーン車車内

この電車は直線区間で複線の札幌-旭川間は
かなりのスピードで走っていくのですが
単線でカーブの多い旭川-稚内間ではとても時間がかかります。
なんとなく写真もスピード感ありますよね?

スピードの速い美唄駅付近

旭川に停車

いよいよ旭川からの単線区間に入りました。
旭川からは3時間半の「汽車」の旅となります。
北海道は電化区間が少ないので
いまだに「電車」ではなくて「汽車」と呼ぶ人が多いですね。

和寒付近の単線区間

手塩中川の駅に停車。
思えば、先日戦後閣僚としてはじめて現職で自殺したM大臣。。
もともと森林行政に携わっていて
その原点が確かここの営林署長だったけな。。
きっと利権をむさぼっていたに違いない。。。

手塩中川駅

さて、このあたりを過ぎると手塩川が線路に平行して流れています。

天塩川

手塩のあたりをも過ぎて、稚内まであと1時間を切ってくると
線路の両側にだんだん高い木がなくなってきているのがわかります。

稚内まであと1時間

稚内到着まであと30分以下となったあたりで
線路は日本海沿いに出ます。運よく車窓から利尻島が見えました。

日本海と利尻島

そして、日本の鉄道の最北端稚内駅に到着しました。
やはり期待通りのモニュメントがありました。

日本最北端の駅

線路自体も港まで通じてないのでほんとうにここでおしまいです。

線路はここでおしまい

私の場合は、2週間に分けて東京から到着しましたが
昔の人はここから札幌や東京めがけて鈍行列車を乗り継いで
行ったのでさぞかし大変だったのでしょう。

そう。。。樺太出身の私の祖父「徳次郎」が
若干19歳の推定大正8年(1919年)に樺太の大泊市から
海を渡ってここ稚内に到着し、当時の国鉄に乗って
はるばる上野駅を目指したそうなのである。

今回の旅はその足跡を確かめたかったというのが
本当の目的なのでした。。。