6/09/2007

稚内で観光バスに乗車

稚内に来たからには最北端の「宗谷岬」に行きたいと思ったのですが、バスの本数も限られてるし、レンタカーを借りるほどでも なくいろいろ調べたらどうやら定期観光バスで行くのが最良の方法とのこと。

おまけに、観光後稚内空港まで送ってくれるということなので、朝8時半出発「宗谷バス」が運行している「稚内Aコース 日本最北端と北海道遺産めぐり」に乗車することにしました。もちろん観光ガイド付きで、何箇所もまわってくれて3300円です。稚内市内からはどのみち空港まではバスに乗るお金も必要になるので、コストパフォーマンスは高いです。

バスに乗ると最初に訪れたのは、市街地のすぐ上にある「稚内公園」です。ここには樺太で亡くなった方々を供養する塔が立っていました。もちろんここに来るまではこの供養搭のことは知らなかったので少しナーバスになりました。

稚内公園

ソ連軍が太平洋戦争末期に突然侵攻してきた時
最後の伝令役になったという
大泊の電報交換の女性たちを祈念するモニュメントがありました。

樺太の人々に追悼

残念ながらこの日は雲が低く、樺太は見えませんでしたが供養と共に手を合わせてきました。。。

実際、祖父徳次郎には兄弟というのがいて、徳太郎、徳三郎、妹2人の5人兄弟だったようですが
徳次郎ジジはさっさと東京へ出てきたので関係なかったのですが徳太郎、徳三郎、妹2人は最後まで大泊に終戦まで住んでいたのでいわゆる引き上げの混乱を体験したそうです。

徳太郎大叔父はその後北海道のどこかに住んだようですが、その後の消息は不明、徳三郎大叔父は樺太で若い頃にスキーのジャンプの名選手だったと聞いてますがその時のケガが元で若くして亡くなったと聞いてますので樺太の地で永眠したのかもしれません。

他の大叔母たちは、さすがに頑強な明治女で私も良く知るおばあさんで結構最近まで生きていたと思います。

以前、亡くなった父親が若い頃、祖父の親戚を頼って北海道一周旅行をしたことがあると言っていましたのでたぶん父親もこの地を訪れているはずです。

そんな意味でも感傷的になりました。

悲しき過去。。。

観光バスは「ノシャップ岬」という場所に停車し
北海道1高い灯台とノシャップ岬を見学しました。

ノシャップ灯台

最初「納沙布岬」かと思いましたがこちらは根室の東端の方で
稚内は「ノシャップ」。。
どうやら同じアイヌの語源からきた言葉のようです。 

ノシャップ岬

次にバスは東に約30kmほど移動し
日本一の広さを誇る肉牛の放牧場がある
日本最北端の丘陵「宗谷丘陵」を経由して
「宗谷公園」という場所に停車しました。

宗谷丘陵

宗谷公園

こちらは宗谷岬の灯台があるくらいですが
サハリンまで約40kmとの場所で本来なら
サハリンの島影が見えるようです。
やはり、雲が低くて残念ながら見れませんでした。

樺太が見えない。。。

ここには、1983年ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行き大韓航空旅客機がソ連戦闘機に撃墜されるという悲しい出来事「大韓航空撃墜事件」の事件現場に一番近い陸地とのことで慰霊塔もありました。日本人も28人が犠牲になったそうです。この話は頻繁に飛行機に乗って国内や海外を移動している当方にとって胸が痛くなるようなストーリーです。。。

そして、驚いたことに日本最南端、最西端の「市」である石垣市とは姉妹都市ということも初めて知りました。先々週行ったばっかりだ!ということは。。。残されたのは東端の「市」である「根室市」ということになります。これは、いずれチャレンジしないと。。。

石垣市と姉妹都市?

バスは宗谷公園から海岸沿いに下り
最北端のモニュメントの場所に移動しました。

日本最北端

観光バスもたくさん来て写真を撮る所です。
しかし、みなさんここで満足しているようですが
実の最北端がこのモニュメントの裏側にあるのを見逃しませんでした。
もちろんちゃんと踏みしめてきました。  

本当の日本最北端

ここら一帯は、すべてが最北端になりますので
最北端のバス停、最北端の売店、最北端の食堂、
最北端のトイレ、最北端の民宿。。。などなど。。

日本最北端の売店

日本最北端のトイレと定期観光バス

もちろん、ここでの名産品「水ダコ」を串焼きにしたものと
生ビールを食べたのは言うまでもありません。

もちろん最北端のトイレにも行きました。

ただ、本当の最北端となると宗谷岬の沖合いにある
岩礁「弁天島」が正式な最北端だそうですが、ただの岩なのでした。

本当の最北端

最後に江戸時代に「間宮海峡」を発見して樺太が島であることを発見した間宮林蔵が樺太に渡った地点の記念碑を見て、稚内観光の最後となりました。

荒れる北の海を、先日(2007年6月)青森県深浦で発見された北朝鮮からタコ船で脱北してきた漁師の家族のような木っ端のような船で樺太へ渡ったそうです。その頃はこの北海道へ渡るだけでも大変なのにこの最北端の地からさらに北へ向かったという事実は驚愕に値するものです。

間宮林蔵さんは偉大なのである

さてさて、最後に。。。。若干19歳で東京に出た祖父ですが、その後の羽振りの良さや戦後に五反田でけっこう大きな土地を保有していたなどなど、実はそこそこの金を持っていたように推測されます。

東京に上京したあと、上野精養軒でシェフまでなって、その後五反田の繁華街にレストランを開店して独立した。。。という割には、上京してから成功するまでの時間が短いのです。。。

実際、樺太に渡ったとはいえ食べるにも困るような「極貧」であったという話は聞いたこともないし、樺太の鉄道省勤務くらいではさほど上京資金なども稼げなかっただろうから、借金の保障人になって土地などは取られたかもしれないが、青森県弘前から樺太へ移転した際にはそこそこの金を持って行ったようです。いわゆる「開拓民」であったという話もないのでたぶんそうでしょう。。。

当方も札幌で仕事をしていたころ聞いた話では、いわゆる明治初期の開拓民やずっと地中にいた炭鉱労働者でない限りは、実は北海道や樺太に住んでいた人々というのは、かなり裕福であった
という話を聞いたことがあります。

炭鉱労働者も危険手当があったせいで、とても高賃金だったと聞いているしいわゆる内地の女工さんのレベルとはどうやら違うようです。もちろん自然環境はとても厳しいのですが、稚内は沿岸部にあって対馬暖流の影響で以外にも温暖ということなので、そういう意味では海の影響をもろに受けて樺太と同じくらい高緯度にあるのに温暖なバンクーバーとある意味似ているのでした。

ただ、ここの違いは強烈な北風で風力発電ができるほどで、そういう意味では自然環境は確かに厳しいです。。。。でも、昔の日本人のバイタリティーというのを改めて感心させられる旅でした。

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